
東京の片隅にある古びたアパートの一室。窓から差し込む夕暮れの光が壁に映る影を不気味に揺らしていた。佐倉誠(さくらまこと)は、目の前に広がるパソコン画面を見つめたまま、動かなくなっていた。
「6rd計画…」
彼はつぶやいた。その言葉を口にした瞬間、奇妙な感覚が全身を駆け巡った。まるで誰かに監視されているような、そんな感覚だ。
誠は元SEだった。大手IT企業で働いていたが、ある日突然、会社のシステムに侵入した何者かによって、すべてのデータが暗号化され、身代金を要求された。その事件の責任を一部負わされ、会社を去ることになった。
しかし、誠はその事件の背後に何か大きな陰謀があると感じていた。
それから3ヶ月。ネットの深層を調査する中で、彼は「6rd」という言葉に何度も遭遇した。IPv6からIPv4へのトンネリング技術としての6rdではなく、もっと別の、闇の意味を持つ「6rd」だ。
彼の調査によれば、それは単なる技術用語ではなく、国際的な情報操作プロジェクトのコードネームだった。
「ねえ、また徹夜?」
後ろから声がして、誠は我に返った。妻の深沙希(みさき)だ。優しい笑顔が、疲れた彼の心を少し和らげる。
「ああ、ちょっとね。すぐ終わるから、先に寝ていて」
深沙希は黙って彼の肩に手を置き、しばらくそのまま画面を見つめていた。彼女は誠の仕事のことを詳しく知らなかったが、彼が何か大きなものに立ち向かっていることは感じていた。
「無理しないでね」
そう言って、深沙希は寝室へと戻っていった。
誠はもう一度、画面に向き合った。6rd計画の痕跡を追いかけ続けるうちに、彼は恐ろしい事実に気づき始めていた。
翌日。誠は旧友である警視庁サイバー犯罪対策課の刑事、高山と会う約束をしていた。新宿の喫茶店。店内は適度な騒がしさがあり、二人の会話は他人に聞かれることはない。
高山が席に着くなり、誠は切り出した。
「6rdについて何か知らないか?」
高山の表情が一瞬、硬くなった。彼はコーヒーをゆっくりとすすり、周囲を確認してから小声で答えた。
「どうしてそれを知っている?触れない方がいい案件だ」
「偶然見つけた。でも、これは偶然じゃないんだ。俺が会社を辞めることになった事件も、これに関連しているような気がする」
高山はしばらく黙っていたが、やがて小さなため息をついた。
「6rdは、世界規模のデータ収集・操作プロジェクトのコードネームだ。政府機関や大手テック企業が関わっている可能性がある。しかし公式には存在しないことになっている」
「何のためのプロジェクトなんだ?」
「誰もが自分の意志で行動していると思っているが、実はそうではない世界を作り出すためだ。人々の行動パターン、思考、嗜好を分析し、微妙に操作する。そのための基盤技術だと言われている」
誠は息を呑んだ。彼の予想を遥かに超える規模の話だった。
「証拠はあるのか?」
「断片的にね。でも、このことを調べている人間が次々と姿を消している。佐倉、忠告しておく。これ以上深入りするな」
高山の言葉には重みがあった。しかし誠は、すでに引き返せないところまで来ていた。
その夜、誠は不思議な夢を見た。無限に続く廊下を歩いている。どのドアを開けても同じ光景。パソコンの前に座り、何かを入力し続ける自分自身の姿。そして耳元でささやく声。
「6rdから逃れることはできない」
冷や汗びっしょりで目が覚めた。隣で深沙希が平和な寝息を立てている。時計を見ると午前3時33分。奇妙な一致だ。
誠はベッドから抜け出し、リビングのパソコンの前に座った。画面を開くと、彼が調査していたファイルが勝手に開かれている。誰かが遠隔で操作したのか?セキュリティは万全のはずだったが…。
そして、画面にメッセージが表示された。
「好奇心は時に命取りになる。6rdの秘密に近づきすぎた。48時間以内に調査を中止しなければ、あなたの大切な人に危害が及ぶ」
誠の背筋に冷たいものが走った。彼らは深沙希のことを知っている。そして、彼の行動を監視していた。
恐怖と怒りが入り混じる中、誠は決断した。逃げるのではなく、この謎の核心に迫ろう。
翌日、誠は行動を開始した。まず、過去の報道記事を調査。技術系のブログやフォーラムでの謎の投稿。消えたプログラマーたちの痕跡。それらを繋ぎ合わせると、ある場所が浮かび上がってきた。
郊外の廃工場。かつて最先端の電子機器を製造していたが、10年前に突然操業停止。公式記録では火災による閉鎖となっているが、地元住民の証言によれば、夜になると今でも中から光が漏れることがあるという。
誠は深沙希に「仕事の調査で出かける」と伝え、その工場へ向かった。日が落ち始めた頃、彼は工場の外周を調査していた。確かに使われていない様子だが、よく見ると最新の監視カメラが設置されている。廃工場のはずなのに。
彼は監視の死角を見つけ、フェンスを乗り越えた。中に入ると、古い機械の残骸が散乱している。しかし奥へ進むと、床に新しい痕跡があることに気づいた。何かが頻繁に運び込まれている形跡だ。
そして、彼は隠し通路を発見した。工場の床下に続く階段。
心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、誠はその階段を下りていった。暗闇の中、携帯のライトだけが頼りだ。
階段の先には、信じられない光景が広がっていた。最新鋭のサーバールーム。無人で稼働する大量のコンピューター。壁には「Project 6rd」と書かれたプレートがあった。
誠はすぐに行動した。USBメモリを取り出し、情報収集を開始。画面には次々と現れる暗号化されたファイル。彼のスキルを総動員して、いくつかのファイルをコピーすることに成功した。
突然、警報が鳴り響いた。誠は急いでUSBを抜き取り、来た道を戻る。階段を上がりきったところで、懐中電灯の光が彼を捉えた。
「動くな!」
黒服の男たちだ。誠は咄嗟に暗闇に身を投げ出し、工場内の障害物を利用して逃げ切った。車に飛び乗り、全速力で走らせる。後方からは追手の車のヘッドライトが見えた。
その夜、誠は安全なホテルに身を隠した。持ち帰ったデータを解析すると、恐ろしい真実が明らかになった。
6rd計画の正体は、人々の潜在意識に働きかける高度なアルゴリズムだった。SNSやニュースサイト、動画配信サービスを通じて、人々の思考や行動を微妙に誘導する。その目的は、社会の分断を促進し、混乱の中で特定の勢力が力を得るためだった。
そして最も衝撃的だったのは、このプロジェクトが10年以上前から稼働していたという事実。世界中で起きた予想外の選挙結果や社会運動の背後には、この6rd計画の影響があったのかもしれない。
誠は深沙希に連絡を取った。「しばらく帰れない。でも大丈夫だから」
しかし電話の向こうの深沙希の声は震えていた。「誰かが家に来たわ。あなたを探している人たち…」
恐怖が誠を襲った。「今すぐそこを離れて!実家に行って」
電話が切れた。誠は焦った。彼女に危険が及ぶことだけは避けなければならない。
その時、ホテルのドアをノックする音。
鼓動が早くなる。誠はノートパソコンのデータを急いで暗号化し、バックアップをクラウドにアップロードした。そして、ドアを開けた。
予想に反して、そこにいたのは高山だった。
「中に入れてくれ。話がある」
高山は疲れた表情で部屋に入ってきた。「お前が6rdの施設に侵入したことは知っている。もう引き返せない。だが、お前一人では戦えない」
「深沙希が危ない」
「すでに動いている。今頃は安全な場所に移動しているはずだ」
高山は、サイバー犯罪対策課の中にも6rd計画の真実を知り、それに抵抗しようとしている小さなグループがあることを明かした。
「世間に公表するにはまだ証拠が足りない。しかし、お前が持ち帰ったデータが鍵になるかもしれない」
二人は徹夜で作業した。データを解析し、公開する準備を進める。そして、それを世界中の信頼できるジャーナリストや研究者に同時に送信する計画を立てた。
夜明け前、すべての準備が整った。
誠は深呼吸をして、送信ボタンを押した。これで後戻りはできない。6rd計画の全貌が世界に明らかになる。
「これで終わりだ」と高山が言った。
しかし誠は首を横に振った。「いや、これが始まりだ。私たちはまだ知らないことがたくさんある。6rdはもっと大きな何かの一部なのかもしれない」
窓の外では、新しい一日が始まろうとしていた。世界は変わるかもしれない。あるいは何も変わらないかもしれない。しかし誠は、真実を明らかにするという自分の選択に後悔はなかった。
深沙希と再会できるその日まで、彼の戦いは続く。
そして私たちも、知らず知らずのうちに誰かに操られていないか、自分の目で確かめる必要があるのかもしれない。6rd計画は架空の物語ではあるが、現代のデジタル社会において、情報操作の危険性は決して無視できないリアルな問題なのだから。